人間は創り出すものを定めたときに初めて創造性やエネルギーが解放されるようにできている。 そうでないときは常にパワーを温存するように設計されている

 

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9月21日(金)から9月24日(月)まで「創り出す思考」ワークショップに参加してきた。学習する組織の核となる概念である「構造的緊張」を創り出したロバートフリッツの話は一度機会があれば聞いてみたいと思っていたこと、更に今回は「創り出す」ことそのものがテーマで、個人的な関心ともフィットしたので、即断即決で参加することにした。

 

すぐに活用できる学びもあれば、中長期的に深めていく学びもあり、全ての要素がキレイに脳内に収まった訳ではないが、最もインパクトが大きかった「創造プロセスにおけるマインドセット」について書いてみたい。

 

なお、これはあくまでワークショップを受けた僕が感じたことや考えたことを記しているのであって、ロバートの発言や考えそのものではないことをお断りしておく。

 

創造プロセスにおけるマインドセット1「何もないところから始める」

 人はいつも自分の頭で考え、発想していると思い込んでいる。しかしほとんどの場合、何らかの常識やものの考え方、経験、フレームワークから考えや発想を創っている。それは「考えている」とは言えず、「自動処理している」ことに実は近い。

ただ、人は自分がそんなことをしているとはなかなか気づけない。自分で考えていると思い込み、ゆえにその枠から抜け出すことができない。これは本当に無意識のうちに起こっていて、染み付いているがゆえにほとんどの人が気づけない。

 

今回のワークショップの中で、ロバートは何度も何度も「何もないところから始めるんだ」と強調していた。

ワークショップの中でこんな場面があった。あるワークの前に「4つの質問」というツールを学んだ。普通のワークショップであれば、その後、ツールを使った演習を行うところであろうが、ロバートは「実際のコンサルティングの場面では4つの質問を使うことはない」とあっさりと言った。「じゃあ何のために4つの質問のレクチャーがあったんだろう…」と思っていると、続けてこんなことを教えてくれた。

 

コンサルティングはあくまでその状況に合わせて行われるものであって、あらかじめ4つの質問を使おうとか、そのような考えのもとで行われるものではない。理論は後知恵に過ぎない」

 

確かにロバートの言うとおりだ。何かの前提があって、それを持ち込んでしまうことは「創造」ではない。目の前の状況に徹底的に寄り添い、生成的に創り出されるものこそが、本当の「創造」だ。

 

ツールを学んだ上で、敢えてそれを使わない非合理なプロセスの中だからこそ、このマインドセットを掴むことができた。とはいえ、すぐにこのセンスが腹落ちしたわけではない。どうしても、既成の枠組みから考えてしまう時に、すかさず「何もないところから始めるんだ」と、ロバートが繰り返し伝えてくれたことで、段々と自分に馴染んできた。

 

この考えはゼロベース思考とも呼ばれており、自分もそれなりに身につけているつもりだった。しかしそれは自分の思い込みだったことが、今回参加してはっきりと分かった。このセンスに気づけたこと、そして重要性を深く認識できたことは、本ワークショップで得た成果の1つだ。

 

創造プロセスにおけるマインドセット2「不の解消ではなく、望む結果にフォーカスする」

例えば「良い親でありたい」というビジョンがあったとする。一見、このビジョンは素晴らしいものであるように思えるし、大抵のコーチングセッションでは「良い親ってどんな親?」というような問いかけからスタートしていくだろう。

 

ロバートから言わせると、この場合、そもそもビジョン自体が不適当だ。

「良い親でありたい」は「望む結果」ではなく「自分」に焦点があたっている。この場合、本当に創り出したいものは「良い親であることによって創り出されるもの」だ。

つまり、本当は「良い親」になりたい訳ではなくて「良い親になることで起こる何かを実現したい」のだ。

これに気づかないまま「良い親」になりたいというビジョン設定のまま進んでしまうと、それは本当の真実ではないためパワフルさに欠けるし、「良い親」には何らかの観念が入り込んでいる。(例「子どもの夢を叶える最良の環境を整える親こそが良い親である」。このようなケースの場合、自身の不快な体験によって観念が作られている場合が多い)

観念が入ってしまうと「何もないところから始める」こともできない。

 この手の誤りを人は犯しやすい。ロバートはこれを「自意識問題」と呼んでいて、創造プロセスには一切関係が無いと喝破している。

 

このマインドセットについては、まだまだ熟達が必要だと認識している。創り出すものにフォーカスしているつもりでも、どこかで不の解消が入り込んでしまうことがある。その度に「本当に創り出したいものは何なのか?」を問いかける習慣を身につけていきたい。

 

創造プロセスにおけるマインドセット3「リアリティーを見よ」

4日間の間、一貫性を持つロバートの言動に注目していた。それこそが創造の秘訣である可能性が高いからだ。

先ほどの「何もないところから始める」もその1つであるが、同じぐらい強調していたことが「リアリティーを見よ」であった。

 

特に記憶に残っているのが質疑応答のやり取りだ。僕たちはどうしても「こういう状況の時は〜」とか「もしこうなったら〜」という観点で質問をしがちだ。今回もそんな場面が見られた。そして、多くの場合、講師やファシリテーターも、ついついその質問を真に受けて乗っかってしまいやすい。相手に貢献したいという願いがあるからだ。

 

この点、ロバートは全く異なる振る舞いをしていた。仮想的な状況や前提を置いた質問があると「それは実際に経験したのか?」と確認し、実際に起こっていないことがわかった時点で質問に答えるのを止めていた。実際に起こっていないことを扱っても意味がないからだ。

 

それだけリアリティーにこだわる背景には、リアリティーと創り出したいものの間に生まれる緊張構造こそが創造を生み出す(構造的緊張)という考えから来ている。創り出したいものを明確にすることも大事なのだが、同じぐらい現実を現実のまま扱うことも大切なのだ。

人はついつい、自分の考えや前提を入れて現実を扱ってしまう。ロバートは現実をただ現実として扱う姿勢を徹底的に取っていた。

 

 

以上、創造プロセスにおける3つのマインドセットは、特別な要素は何も含まれていない。このマインドセットは、人がよく犯してしまいがちな思い込みを修正してくれる規律(ディシプリン)として機能するのだ。

 

神秘体験からの学び

先日、神秘体験をした。神秘体験については人から話を聞いたり、本を読んではいたので、知識としては知っていたが、知ると体験するとでは全くの別物であり、今後の参考としても記録しておきたい。

 

神秘体験をしたのは9月16日(日)の未明であった。いつもと同じように寝ようとしたところ、その日はなぜか目が冴えてしまい、眠りに入る気がしなかった。それでもあまり気にせずにベッドに入っていたところ、頭の辺りにモヤが掛かっているような感覚が生じた。少し意識を向けると、そのモヤは取り払えそうになり、それがまた心地よい感覚を覚えたが、同時に意識が飛ぶ予感もあり、怖くて取り払えなかった。

しばらく、この「モヤ」の正体が「自我」だとわかった。そうすると、「モヤ」を取り払っても死ぬわけではないと思えるようになって「モヤ」を取り払う勇気が出てきた。

とはいえ、恐怖が無くなったわけではない。もし自分の見立てが間違っていたらどうしようと不安になりながら、モヤを取り払うように自分の意識を向けた。

 

そうなると、自分の意識が身体から移動して、自分の外に意識があるようになった。とはいっても、身体からの意識が無くなったわけではない。身体の意識もあるし、外にも意識がある、そんな感じだ。身体の意識は馴染みのあるいつもの感覚だ。一方で外にある意識はふわふわしていて、心地が良いが、コントロールがイマイチ効かない感じ。少しずつ、自分の外に意識を向けていると、ある瞬間、ふっと意識が飛び、宇宙の中に放り出されていた。その時は身体は無く、宇宙空間に自分の意識だけがある感覚だ。

なんとも不思議だが、じわじわと心地が良い感覚だった。

 

その感覚に身をゆだねていると、今度は大きな部屋の中に自分の意識が移動した。暗室のような部屋の中に、点々とした光がある。部屋の隅には壁のほうを向いて、お経らしきものを唱えている自分の身体の10倍はあろうかと思われる法衣を着た巨人が座っていた。

 

その部屋で浮かんでいると、ある時、声が聞こえてきた。
「お前の役割は祈りだ。この部屋は祈りの部屋で、祈りのエネルギーに満ちている。だから戻る前にエネルギーを浴びられるだけ浴びていけ」成人の男性の声が聞こえてきて、「祈り?何に?なぜ?」と思いながらも、エネルギーを吸収するように意識を向けた。そうすると、次の瞬間、部屋から放り出されて宇宙空間に戻ってきて、あっという間に自分の普段の意識に戻った。

 

これが僕が体験した神秘体験の全容だ。この体験は明らかに夢とは感覚が違っていた。夢というよりは、何らかのビジョンを見せられたという感覚に近い。その後、自分の何かが変わったという感覚はないが、なんとも印象的で、数日経った今でも、その情景が目に浮かぶ。

 

ここからはこの体験から感じたこと、考えたことを記してみたい。

 

自分が神秘体験をすることになった過程にはいくつかの段階があったと考えている。

一つは知識のインプットだ。実はこの数週間、成人の意識発達段階についてリサーチをしていた。その中で、今回の意識状態に近いであろう「目撃者意識」についても調べていた。そのため、「目撃者意識」がどのようなもので、どんな感覚になるのかについて、ある程度のイメージはつく段階だった。また、リサーチをする過程で、自然と自分の意識を「目撃者段階」に近づけており、それが今回の体験に誘われる要因の一つになったであろうと考えられる。また、「モヤ」の段階を「自我」だと気づけたことも大きかった。この観点が無ければ、恐怖に引っ張られて「モヤ」を取り除くことをしなかったと思う。何しろ自分の意識がすべて持って行かれるような、えも知れぬ恐怖だったからだ。

もう一つは「一定度の肉体的疲労」があると考えている。その日は一日中外出していて、かつ歩き通しだったので、かなり疲れていた。そのせいで、自我の抑止が弱まり、別の意識状態が現れやすかったのだろうと思われる。

 

もともと神秘体験自体は、人為的に引き起こせると言われていて、僕も今回の体験を通して、それは確信になった。一定のプロセスで脳を刺激することにより、人為的かつ再現可能な形で神秘体験自体は引き起こせる。慣れさえすれば、自分の意識操作だけで起こせるようになるだろう。

また、神秘体験自体とその人のポテンシャルの発現とは直接関連が無いであろうことも強く感じた。そこで起こったことに衝撃を受けて、思考と行動の変容が起き、そこから自分の可能性が開かれることはあるだろうが、あくまでそれは思考や行動の変化が引き起こしたのであって、神秘体験自体が引き起こしたものではない。だから神秘体験が隠された能力を開くということはあまり無く、その後での熟達が伴って、能力が開かれると考えるのが妥当だろう。

今回の体験や上記の気づきから、意識の発達と能力の発達との直接の関連や、幸福度との関連も無いということも腑に落ちた。そもそも今回の現象は「意識状態の一時的な変化」であって、「意識の発達」が起こったわけえではない。

ただ仮に、意識の発達が今回のような状態を継続的に発生させるものと仮定したとすると、たとえ意識が発達しても、それが能力の発達を起こすわけではないと思った。能力の発達は独自のトレーニングが必要であり、あくまで意識はそのきっかけを創るかもしれない一つの材料に過ぎない。また、意識状態の変化は確かに「良い気分」を引き起こすものではあったが、それは言うならば「幸せ」という概念すら無くなる感覚であり、「幸せであろうが無かろうが関係ない」そんな心地にするものであった。だから、意識発達=幸せになる、という公式は概念上のものだなと腑に落ちた。

 

確かに神秘状態は普段の意識を超えた状態であり、インパクトがあるし、何より見せられるビジョンが壮大なので、自分が神になったり、神に選ばれたような感覚を持つ人がいても不思議ではないと感じた。ただ、現代で分かってきているのは、このような状態は人為的に作れるということだ。だから神秘体験自体が珍しがられたり、何かに利用されるようなことは減っていくと思われる。

次に探求の対象となるのは、「では何がこのようなビジョンを人に見せるのか?」である。見せられるビジョンには共通する要素があるようだし、そうなると何らかのメッセージが込められていると考えられても不思議ではない。この体験をオカルト的、宗教的な観点のみで解読するのではなく、新たな解釈で読み解き、行動に変えることが人には求められているのだろう。

リアクティブな生き方からクリエイティブな生き方にシフトするカギとは?

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来週参加するこちらのワークショップに向けて、この本を読んでいた。

自意識(アイデンティティ)と創り出す思考

自意識(アイデンティティ)と創り出す思考

  • 作者: ロバート・フリッツ,ウェイン・S・アンダーセン,田村洋一(監訳),武富敏章
  • 出版社/メーカー: Evolving
  • 発売日: 2018/09/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 何かを創り出すスキルは「自分が何者か?」などの自己定義とは関係がなく、ただ「創り出すもの」にフォーカスするかに依存するという内容だ。

 

最近は、リーダーシップの領域において「自分を整える」ことの重要性に言及されるようになってきた。ただし、何かを創り出すことにおいて、「自分」は一切関係がないと本書では説かれている。

 

この主張には何らかの反応や反論を抱きたくなる人も多いのではないだろうか?僕も最初はそう感じていたが、読み進めるうちに、本書は「何かを創り出す際に、自分を気にしなくてもいい構造をいかに作るか?」について書かれていることが分かってきて、だんだんと腑に落ちてきた。

 

人は何かを創り出す際に、どうしても自分の思考が入りやすい。「こんなものを創って、周りから自分がバカにされたらどうしよう?」とか「そもそも良いアイディアが思い浮かばない自分はダメだ」とかが典型的なものだ。

確かにこのような自分についての思考は創り出すことそのものにおいては全く関係がない。しかし、往々にしてこんな独り言や思考が頭をもたげてしまう。最終的には知らず知らずにうちに、この思考をやっつけることが創造の隠れた目的になってしまったりする。

本書でも言及されているが、このような思考の動きに自分自身で気づくことは難しい。そして、自分には創造するスキルが足りないと勘違いして発想力を高める研修を探し始めたりする。これも一見悪くない行動のため、さも良いことをしているかのように信じ込んでしまう。

本書の考えだと、このような場合は、自分が創り出すものそのものにフォーカスしきれていないことや、独り言や思考を生み出している自意識にフォーカスしてしまっていることを扱うべきだと考える。

 

リアクティブな生き方をしてしまっている時には、たいてい何らか無意味な自意識に捉われてしまっている。このような時に変に自意識をほじくり回すのではなく、その構造を生み出している信念を明確にして、創り出すものそのものにフォーカスできるようにする。それがクリエイティブな生き方にフォーカスするためのカギだ。

 

そしてこの考え方やアクションこそが「学習する組織」で言われている「セルフマスタリー」なのではないだろうか?「セルフマスタリー」は「自分に振り回されることなく、創り出したい未来そのものにエネルギーを集中させられるように認知をマネジメントするスキル」だ。

 

ワークショップでは演習もたくさん含まれていると聞いているので、日常において実践できるレベルまで身につけて帰りたいと思う。

クリエイティブテンションを引き出すフレームワークとしての「インテグラル理論」

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最近、インテグラル理論に改めて触れる機会があった。意図的なものではなく、偶然が積み重なったものだが、日々の生活を立ち上げるという、ちょうど自分にいま起こっていることとも繋がりがあるせいか、以前に触れた時とは質感が変わっていた。

このプロセスの中で、インテグラル理論への理解も深まったので、振り返りを兼ねて記録しておきたい。

 

インテグラル理論でありがちかつ、もったいない使い方は「分類」に使用してしまうことではないだろうか?僕も最初は人材育成や組織開発の手法を分類することに活用していた。

 

以前、とあるコンサルタントの方からこんな話を聞いた。

フレームワークには2種類ある。クリエイティブテンションを引き出すフレームワークと、そうでないフレームワークがある。クリエイティブテンションを引き出すフレームワークは何らかの創造をもたらすが、そうでないフレームワークはただ整理・分類に役立つだけで、創造をもたらすものではない」

 

この話は何か根拠があるものではなく、あくまで経験をベースにしたものだが、何かしらの真実を含んでいるように思う。

 

インテグラル理論はその名にふさわしく、クリエイティブテンションを引き出す使い方もできれば、そうでない使い方ができるのだろう。

ただ、インテグラル理論を使って分類をしても、散らかっているものがキレイに整うだけで、何かが生み出されるわけではない。これはこれで有用だが、本来のインテグラル理論の使い方ではないだろう。

 

では、本来のインテグラル理論の使い方とはどのようなものだろう?それはインテグラル理論における根幹のコンセプトである「目撃者意識」にヒントがあると考える。「目撃者意識」とは、「すべての現象を目撃している存在」から生み出される意識のことだ(と認識している)

僕の理解では、本来のインテグラル理論は「目撃者意識に至りやすくなるための梯子」として使用するものだと考えている。

取り上げたい対象を4つの象限で観ていくことによって、どこかのタイミングで4つの象限のどこからでもない、智慧が降りてくる瞬間がある。それは4つの象限のいずれかや、掛け合わせによって生み出されるものを超えていて、何らかの啓示や直感、ひらめきのように思える類のものだ。

 

インテグラル理論を活用することによって、直接的に直感やひらめきを得ることは困難だが、直感やひらめきに出会う確率を上げられる、それがインテグラル理論の真のポテンシャルなのではないだろうか?

 

もちろんインテグラル理論はさまざまな観点から用いることができるので、これだけの使い方だけではない。今回インテグラル理論に触れる中でもう一つ印象に残った概念に「ボディ・マインド・スピリット・シャドー」がある。次回はこのコンセプトを取り上げてみたい。

 

インテグラル・シンキング―統合的思考のためのフレームワーク

インテグラル・シンキング―統合的思考のためのフレームワーク

 

 

 

実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図

実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図

 

 

意図力を鍛えるツールとしての気功

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最近、学んだ気功を使うことが習慣化してきた。いまは自分に気功を掛けて、その反応を観るということをやっている。

 

続けてみてわかったことの一つに「気功は意図力を鍛えるツールである」がある。気功の仕組みは、いまの僕の理解では、創り出したい現実を明確にし、その現実を創り出すために意識をどのように使うことが必要かを明確にし、そのトリガーを引く、というものだ。

 

最初に僕が引っかかったのは「体感問題」だった。気功が自分に掛かっているかどうか、体感がないとダメだし、体感があればあるほどうまくいっていると考えていた。しかし、どうやらそうではないというのが本当らしい。

究極的に体感はどうでもいい。あくまで現実に変化が起きているかだけを観ればよく、体感がなくても、現実に変化がおきていればいい。だから、体感に関係なく、現実に起きたことのフィードバックを取って、また気功を掛ける、それだけを丁寧に続けることが気功上達のコツなのではないか?と今は考えている。

 

この考えに至ってからは、体感をあまり重視することなく、ただ現実に創り出したい変化が起こっているかだけを観察するようにしている。起こっていればOK、起こっていない場合は、別の気功を掛けるか、引っかかっているポイントの仮説を立てて、再度気功を掛ける。ただこれだけをひたすらやるだけ。非常にシンプルだ。余計なことも考えなくていい。

 

「体感があるからうまくいく、体感がなかったら失敗」このパラダイムを捨てられるかどうかは上達の関門の一つなのかもしれない。このパラダイムは何も気功にだけ言えることではないとも思う。人は得てして「手ごたえ」を求めがちである。ただ、特に学び始めの段階は、「手ごたえ」自体の精度が低いことも多い。自分のあやふやな感覚である「手ごたえ」に頼るのではなく、ただ現実を観て、起きてほしいことが起こっているかのフィードバックだけをただ取ればいい。

 

その点を鑑みると、「何でフィードバックを取るのか?」というフィードバック設計力も上達の重要なポイントになる。気功も「何を観てフィードバックとするのか?」が曖昧だと、曖昧な現実しか起こらない。

 

その点も含めて、「気功は意図力を鍛えるツール」としては格好のものだと考えている。

「自分のシステムと世界のシステムが一つになる」ことから生まれる智慧

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先日、こちらのワークショップに参加した。前身となるワークショップにも参加し、普通にはなかなか得ることのできない気づきがあり、それからの自分を形作ることにとても役立った。

今回はソーシャルセクターの方が多く参加されることもあり「これまでとは違った場になるんだろうな」と思っていたものの、終わってみれば「起こることが起こるべくして起こる場」となった。

 

参加した人にはさまざまな変化が起きていたが、今回参加することで僕に起こった最大の変化は「ライフミッションが深まった」だった。

システムアウェアネスのワークを通じて、特にここ4年において、「自分が何をやっていたのか?」「何が成果で何が限界だったのか?」「次に向かう場所はどこなのか?」が明らかになる、ということが起きた。

 

僕はここ4年、仕事において大企業向け研修プログラムの商品開発を担っていた。もともと自分の希望していた仕事であり、志願してこの部署に異動した。それまでの6年間は法人営業をしていて、やはり大企業向けに人材開発や組織開発のプログラムを提案する、という仕事をしていた。

この4年間、さまざままチャレンジをしてきた。ライフワークとして学んできている「全体性からの智慧」をベースにしたプログラムの開発に力を入れ、NVC(非暴力コミュニケーション)の考えをもとにした若手~中堅社員内省プログラムや、マネジメント研修にその要素を含んだものなどを開発し、展開してきた。

ここで得られた成果は「全体性からの智慧」を日本の大企業向けに展開できたことだった。エンパシーサークルなどは企業向けにも有用で、それまでの内省のフレームワークよりも、よりパワフルかつより自然に、その人に起こっていることを深く顕す力があることを何度も体験できた。

 

一方で、限界は、その根源に迫りきれないことだった。ただのテクノロジー、ノウハウ、ワークとしてNVCの考え方やエンパシーサークルを導入しても、ほとんど意味がない。そんな時は、目新しさはもたらせるが、それ以上でもそれ以下でもなく、その場の変化は起きても、本質的な変化はほとんど起こらなかった。

では根源とは何か?完全には言葉になっていないが、「快・不快」「ある・ない」「良い・悪い」「正しい・正しくない」という二元的生存・適合認知システムだと考えている。この二元的認知システムに支配されたまま、いくらNVCやU理論など全体性からの智慧を使おうとしても、二元論をベースとした世界を創ることに使われてしまう。

 

この二元的認知システムは、人の無意識に埋め込まれており、かつ、それが生存欲求と一緒になって作動しているため、なかなか手ごわい。

私見ではあるが、現状の経営手法、人材開発手法や組織開発手法のほとんどは、この二元的生存・適合認知システムを土台に築かれている。ホールシステムアプローチや学習する組織は、その中でも全体性をベースにした貴重な智慧ではあるものの、活用する人や導入する企業が二元的生存・適合認知システムに支配されていることも多々あり、そのポテンシャルを活かしきれていない。

 

ここに迫りきれなかったことは自分の実力不足であると考えていたのだが、今回のシステムアウェアネスのワークを通じて、それがシステムによって構造的にもたらされた部分もあったと理解が深まったのだ。(もちろん実力不足の面もある)

ワークの一つに、イノベーターVSエスタブリッシュメントという構図で世界を展開させるものがあった。

僕の人生に置き換えると、入社して営業をやっていた最初の6年間は、社会的にも社内的にもエスタブリッシュメントとしての立場を確立しようとしていた。そして商品開発に異動してからはイノベーターとしての立場を確立しようとしていた。

ただ、このイノベーターとしての立場の確立が難しかった。エスタブリッシュメントの人は必ずしもイノベーションを求めているわけではない。口ではそういうものの、本当に求めているのは「自分たちの問題が解決できるレベルのイノベーション」であり、「自分たちの問題設定そのものが妥当ではないと認知させられるイノベーション」ないし「自分たちそのものの変容を迫られるイノベーション」はこちらが不用意に持ち出すと、意識的・無意識的に弾かれてしまう。これが僕が4年間を通じて体験したことだった。

例えば、「エンパシーサークル」などの手法レベルでは「自分たちの問題が解決できる程度のイノベーション」として広く受け入れられた。ただ、その奥底にある「全体性をベースにした自分や世界の扱い方」についてまで広げることは限界があった。(一部の人には伝わったが、それがマジョリティになるまでには至らなかった。部下育成を通してもさまざまなチャレンジはしたが、その人の成長ステージとも絡み合うためなかなか難しかった)

 

そんな中、今回のワークで、イノベーターとエスタブリッシュメントの両方の立場に身を置いてみて、この対立構造のまま生きるだけでは、自分の創り出したい世界には絶対に到達しないことを体験した。

イノベーターは、自分の想いの伝わらなさやもどかしさ、エスタブリッシュメントからのアタックに傷つき、その傷つきが度を越すと、逃避するか、攻撃して自分だけの居場所を新たに創るという行動に出る。

エスタブリッシュメントは、わけのわからないイノベーターにそこはかとない恐れを感じ、支配しようとする。そしてイノベーターが去っていくことに悲しさ・寂しさを感じ、やはり傷つく。

この対立構造の中にいるまま、イノベーターに身をおいて「全体性からの智慧」を生き、伝えることには限界がある、ワークが進行していく中で、その想いはより一層強くなった。

「イノベーターが、エスタブリッシュメントの立場や想いも重んじて活動すればいいじゃないか?」と言うような声もあるだろう。それはその通りだと思う。ただ、自分がイノベーターの立場に身をおいてみると、それはダブルバインド(イノベーターであり、エスタブリッシュメントである)の状況に置かれるため、実際にはかなり難易度が高い。

真のイノベーションをもたらす(これはもはやイノベーションとも言わない「何か」なのだが)には、この対立構造を抜け出して、その両者の傷つきを内包した上で、真実に繋がり、それまで感じてきた傷つき・痛みこそをリソースに現実を創る場やそれを担う役割が必要になる。

 

この理解に至った時、僕にとっての4年間とは何で、何を学ぶための体験だったのか腑に落ちた。

そして、これからの僕はこの対立構造にいるイノベーターから、「両者の傷つきを内包した上で、真実に繋がり、それまで感じてきた傷つき・痛みこそをリソースに現実を創る」役割を担いたい、という願いが出てきた。

 

この願いと共に、自分の存在意義も自然と言葉になった。
「全体性からの智慧を源に、Unityに繋がり直した世界を取り戻すために生まれてきた」

 

これがこの2日間を通じて得られた成果であり、変化だ。
改めて全体性から来る愛と力を、力強く体験する場であった。自分自身もこの場を世界に創っていくことにコミットする。

内省なき選択は浅はかであり、選択なき内省は無力である

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「内省」は一見いいことのように思われているが、「内省」だけでは変容は起きない、そんなことを最近よく考える。

今日も散歩をしながらこのテーマが再び浮かんできて、しばらく置いておこうと思ったのだが、あまりにもちょくちょく出てくるので、一度表現してみることにした。

 

このテーマに関する私見として、『「内省力」と「選択力」はセットだ』がある。

そして、パフォーマンスに影響度の高い要素はどちらかというと「選択」だとも考えている。優れたリーダーは必ずしも深い内省をしているかというと、必ずしもそうとは言えないのではないか?という仮説がある。

逆に優れたリーダーは、「選択」について優れたセンスを持っている人が総じて多い印象がある。「選択力」はあるが「内省力」に欠けたリーダーは、狭い視野で選択をしたり、周囲への影響をあまり鑑みずに選択をしてしまう傾向があるように思う。そしてそれを内省力をつけることで補うというより、その失敗を元に改めて選択することでリカバリーしているのではないだろうか?つまり、「内省力」の欠如を「選択力」で補っているのだ。

理屈で考えれば、深い内省から導き出された選択が大きく現実が変えることはあるだろう。ただ、選択に反映された現実を観察し、そこから改めて選択する、という、いわば選択重視の姿勢の方が現実変容スピードは速いのだと思う。

だから今のリーダーには「選択重視」のリーダーが多いし、そのようなリーダーが求められるのだろう。

 

内省を起点したリーダーシップを発揮し、現実を変えていくためにもこの「選択」の力が欠かせない。そしてそれと共に「本当に選択という概念があるのだろうか?」という感覚も存在している。自分が自然に選択している時は、選択しているという感覚そのものがなかったりするからだ。

内省も選択も、どちらも概念であり、具体的な事象を具体的に扱っていく中でこそ見えてくるものがあるはずだ。自分の体験を題材にしながら引き続き扱っていきたい。