神秘体験からの学び

先日、神秘体験をした。神秘体験については人から話を聞いたり、本を読んではいたので、知識としては知っていたが、知ると体験するとでは全くの別物であり、今後の参考としても記録しておきたい。

 

神秘体験をしたのは9月16日(日)の未明であった。いつもと同じように寝ようとしたところ、その日はなぜか目が冴えてしまい、眠りに入る気がしなかった。それでもあまり気にせずにベッドに入っていたところ、頭の辺りにモヤが掛かっているような感覚が生じた。少し意識を向けると、そのモヤは取り払えそうになり、それがまた心地よい感覚を覚えたが、同時に意識が飛ぶ予感もあり、怖くて取り払えなかった。

しばらく、この「モヤ」の正体が「自我」だとわかった。そうすると、「モヤ」を取り払っても死ぬわけではないと思えるようになって「モヤ」を取り払う勇気が出てきた。

とはいえ、恐怖が無くなったわけではない。もし自分の見立てが間違っていたらどうしようと不安になりながら、モヤを取り払うように自分の意識を向けた。

 

そうなると、自分の意識が身体から移動して、自分の外に意識があるようになった。とはいっても、身体からの意識が無くなったわけではない。身体の意識もあるし、外にも意識がある、そんな感じだ。身体の意識は馴染みのあるいつもの感覚だ。一方で外にある意識はふわふわしていて、心地が良いが、コントロールがイマイチ効かない感じ。少しずつ、自分の外に意識を向けていると、ある瞬間、ふっと意識が飛び、宇宙の中に放り出されていた。その時は身体は無く、宇宙空間に自分の意識だけがある感覚だ。

なんとも不思議だが、じわじわと心地が良い感覚だった。

 

その感覚に身をゆだねていると、今度は大きな部屋の中に自分の意識が移動した。暗室のような部屋の中に、点々とした光がある。部屋の隅には壁のほうを向いて、お経らしきものを唱えている自分の身体の10倍はあろうかと思われる法衣を着た巨人が座っていた。

 

その部屋で浮かんでいると、ある時、声が聞こえてきた。
「お前の役割は祈りだ。この部屋は祈りの部屋で、祈りのエネルギーに満ちている。だから戻る前にエネルギーを浴びられるだけ浴びていけ」成人の男性の声が聞こえてきて、「祈り?何に?なぜ?」と思いながらも、エネルギーを吸収するように意識を向けた。そうすると、次の瞬間、部屋から放り出されて宇宙空間に戻ってきて、あっという間に自分の普段の意識に戻った。

 

これが僕が体験した神秘体験の全容だ。この体験は明らかに夢とは感覚が違っていた。夢というよりは、何らかのビジョンを見せられたという感覚に近い。その後、自分の何かが変わったという感覚はないが、なんとも印象的で、数日経った今でも、その情景が目に浮かぶ。

 

ここからはこの体験から感じたこと、考えたことを記してみたい。

 

自分が神秘体験をすることになった過程にはいくつかの段階があったと考えている。

一つは知識のインプットだ。実はこの数週間、成人の意識発達段階についてリサーチをしていた。その中で、今回の意識状態に近いであろう「目撃者意識」についても調べていた。そのため、「目撃者意識」がどのようなもので、どんな感覚になるのかについて、ある程度のイメージはつく段階だった。また、リサーチをする過程で、自然と自分の意識を「目撃者段階」に近づけており、それが今回の体験に誘われる要因の一つになったであろうと考えられる。また、「モヤ」の段階を「自我」だと気づけたことも大きかった。この観点が無ければ、恐怖に引っ張られて「モヤ」を取り除くことをしなかったと思う。何しろ自分の意識がすべて持って行かれるような、えも知れぬ恐怖だったからだ。

もう一つは「一定度の肉体的疲労」があると考えている。その日は一日中外出していて、かつ歩き通しだったので、かなり疲れていた。そのせいで、自我の抑止が弱まり、別の意識状態が現れやすかったのだろうと思われる。

 

もともと神秘体験自体は、人為的に引き起こせると言われていて、僕も今回の体験を通して、それは確信になった。一定のプロセスで脳を刺激することにより、人為的かつ再現可能な形で神秘体験自体は引き起こせる。慣れさえすれば、自分の意識操作だけで起こせるようになるだろう。

また、神秘体験自体とその人のポテンシャルの発現とは直接関連が無いであろうことも強く感じた。そこで起こったことに衝撃を受けて、思考と行動の変容が起き、そこから自分の可能性が開かれることはあるだろうが、あくまでそれは思考や行動の変化が引き起こしたのであって、神秘体験自体が引き起こしたものではない。だから神秘体験が隠された能力を開くということはあまり無く、その後での熟達が伴って、能力が開かれると考えるのが妥当だろう。

今回の体験や上記の気づきから、意識の発達と能力の発達との直接の関連や、幸福度との関連も無いということも腑に落ちた。そもそも今回の現象は「意識状態の一時的な変化」であって、「意識の発達」が起こったわけえではない。

ただ仮に、意識の発達が今回のような状態を継続的に発生させるものと仮定したとすると、たとえ意識が発達しても、それが能力の発達を起こすわけではないと思った。能力の発達は独自のトレーニングが必要であり、あくまで意識はそのきっかけを創るかもしれない一つの材料に過ぎない。また、意識状態の変化は確かに「良い気分」を引き起こすものではあったが、それは言うならば「幸せ」という概念すら無くなる感覚であり、「幸せであろうが無かろうが関係ない」そんな心地にするものであった。だから、意識発達=幸せになる、という公式は概念上のものだなと腑に落ちた。

 

確かに神秘状態は普段の意識を超えた状態であり、インパクトがあるし、何より見せられるビジョンが壮大なので、自分が神になったり、神に選ばれたような感覚を持つ人がいても不思議ではないと感じた。ただ、現代で分かってきているのは、このような状態は人為的に作れるということだ。だから神秘体験自体が珍しがられたり、何かに利用されるようなことは減っていくと思われる。

次に探求の対象となるのは、「では何がこのようなビジョンを人に見せるのか?」である。見せられるビジョンには共通する要素があるようだし、そうなると何らかのメッセージが込められていると考えられても不思議ではない。この体験をオカルト的、宗教的な観点のみで解読するのではなく、新たな解釈で読み解き、行動に変えることが人には求められているのだろう。