意図力を鍛えるツールとしての気功

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最近、学んだ気功を使うことが習慣化してきた。いまは自分に気功を掛けて、その反応を観るということをやっている。

 

続けてみてわかったことの一つに「気功は意図力を鍛えるツールである」がある。気功の仕組みは、いまの僕の理解では、創り出したい現実を明確にし、その現実を創り出すために意識をどのように使うことが必要かを明確にし、そのトリガーを引く、というものだ。

 

最初に僕が引っかかったのは「体感問題」だった。気功が自分に掛かっているかどうか、体感がないとダメだし、体感があればあるほどうまくいっていると考えていた。しかし、どうやらそうではないというのが本当らしい。

究極的に体感はどうでもいい。あくまで現実に変化が起きているかだけを観ればよく、体感がなくても、現実に変化がおきていればいい。だから、体感に関係なく、現実に起きたことのフィードバックを取って、また気功を掛ける、それだけを丁寧に続けることが気功上達のコツなのではないか?と今は考えている。

 

この考えに至ってからは、体感をあまり重視することなく、ただ現実に創り出したい変化が起こっているかだけを観察するようにしている。起こっていればOK、起こっていない場合は、別の気功を掛けるか、引っかかっているポイントの仮説を立てて、再度気功を掛ける。ただこれだけをひたすらやるだけ。非常にシンプルだ。余計なことも考えなくていい。

 

「体感があるからうまくいく、体感がなかったら失敗」このパラダイムを捨てられるかどうかは上達の関門の一つなのかもしれない。このパラダイムは何も気功にだけ言えることではないとも思う。人は得てして「手ごたえ」を求めがちである。ただ、特に学び始めの段階は、「手ごたえ」自体の精度が低いことも多い。自分のあやふやな感覚である「手ごたえ」に頼るのではなく、ただ現実を観て、起きてほしいことが起こっているかのフィードバックだけをただ取ればいい。

 

その点を鑑みると、「何でフィードバックを取るのか?」というフィードバック設計力も上達の重要なポイントになる。気功も「何を観てフィードバックとするのか?」が曖昧だと、曖昧な現実しか起こらない。

 

その点も含めて、「気功は意図力を鍛えるツール」としては格好のものだと考えている。