商品開発の原点〜本当に幸せにしたい実在の1人に出会えるまで粘る〜
いま、とある商品の開発プロジェクトに携わっている。しばらく前からそろそろ進めなければならないことは分かっていたが、どうにも身が入らない自分がいた。とはいえ、いい加減、手をつけ始めなければならずどうしたものかと悩んでいた。
いまいち身が入らなかった理由は、この商品が結局誰を幸せにするものなのかが自分にとって明確になっていなかったからだ。
そこで、あるおまじないを自分に投げてみた。それがタイトルにもある「本当に幸せにしたい実在の1人に出会えるまで粘る」だ。この一言一句すべてに意味がある。
「本当に幸せにしたい」は、自分が心から幸せにしたい人でなければダメだ。仕事抜きに、損得抜きにして幸せにしたい人を思い浮かべられるかがポイント。でないと、粘り強さが失われてしまう。
「実在の1人」も大切で、この人は実際に存在する人でなければならない。あとでペルソナ化するのはアリだとしても、実在の1人を見つけるフェーズを経ないとリアリティのある課題を掴むことができない。
「出会えるまで粘る」も外せないところ。時間が限られていると、ついつい諦めてしまうが、「出会えていない」ということは探索が足りない証だ。僕が今回陥ってしまったポイントもここだった。時間が足りないことを言い訳に、本当はしっくり来ていないにも関わらず「実在の1人」を妥協してしまっていた。身が入らないのはここで妥協していたことが大きかった。
今日、改めてこのフレーズと向き合い、考え直してみたところ、あっさりと「実在の1人」が見つかり、これから行けそう!という感覚が高まった。
今後は実際にインタビューなどを行い、その感覚が現実のものとなりそうか確かめていきたい。
心身を健康に保つルーティンの創造に向けて
今日、久しぶりに整体に行ってきた。もともと講師登壇が多かった月なので、あらかじめスケジューリングしておくべきであったが、優先度が落ちてしまっていた。
定期的に身体をメンテナンスしないと、身体にはもちろんのこと、思考にも影響が出てしまう。今回はそのレベルまで行ってしまい、慌てて対処することになってしまった
この手の事柄で最もインパクトが大きいことは、日々のルーティンに影響が出ることだ。立て直すのに数日掛かるし、場合によってはその中でルーティンが失われてしまうことにも繋がりかねないので、自分の認知している以上にインパクトが大きい。
今後については以下のようなルーティンを創り、身体の下限をマネジメントしたい。
- 体調記録の実施:手帳に体調を記録し、可能な限り要因を記録する
- 瞑想の実施:できれば朝、難しければ夜、10分程度
- 気功の実施:朝、出社時、昼、夜、それぞれ5分程度
- 整体に行く:90日に1回は行くようにする
上記をいきなりすべて実施するのは難しいかもしれないが、このエントリー自体を振り返りながら、ひとつひとつ習慣化して着実にルーティンにしていきたい。
人は人だからこそ発揮できる創造力をすでに知っている
先日、『グレイテスト・ショーマン』を観てきた。評判に違わない素晴らしい映画で、映画館で鑑賞できて良かった。
中でも本編終了後に上映された以下の映像は、人が人だからこそできるクリエーションとは何か?を指し示してくる貴重なものであった。
ヒュー・ジャックマンも感涙!映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ワークショップセッションの様子
いくつか象徴的な場面がある。
1つめは、冒頭のインタビューにある「マイクの後ろで歌っていた」だ。表現する上での恐怖はどんな人にだってある。この映画に出演するのはみんな表現のプロフェッショナルのはずである。それでも、人の前に立って表現することには恐れがあるものなのだ。では、僕たちは、人生において今どんな恐れと対峙しているのだろうか?
2つめもインタビューから。監督の「リングの外に出ろ」だ。いくら頭でわかっていても、実際にリングの外に出ないとダメなのだ。リングの外に出ることによって、つまり恐れを乗り越えることによって初めて場に生まれるものがある。
3つめは言わずもがなの、キアラ・セトルが実際に「リングの外に出た」瞬間である。あの瞬間、場がひとつになるのを誰もが感じるだろう。この現象はリーダーシップ理論のひとつである「U理論」では「プレゼンシング」と呼ばれている。このプレゼンシングについては以下のような説明がされている。まさにあの場で起こったことではなうだろうか。
オットー博士はその体験をした人の言葉として以下のような引用をしています。
「わたしは、わたしが体験したことを言葉で説明することができない。わたしの全存在が減速し、静寂、存在、そして真の自己をより感じる。わたしは自分自身より大きな“何か”につながる。」
実際に、映画館の中でこのシーンを観ていた人が上映直後に口々にしていた言葉も「言葉にできないけどなんかすごい」であった。言葉を超えているから言葉にできないのだ。そしてそれを人は潜在的に知っているのである。
技術が卓越すること、経験を蓄積することだけでは決して発揮できないレベルの創造性を、人は生まれながらに持っている。
それは自分の内面にある恐れが自分に存在すること、そしてその恐れの中にいる自分の限界を心の底から知ること、最後に、その恐れから一歩踏み出すことで、初めて発揮できるものだ。
この力は特別な人だけが持ち合わせているのではない。誰もが持っているものだ。そして、この力は人種、性別、価値観が異なった人も一気に繋げてしまうパワフルさがある。
この力がこれからの人類には必要とされている。異なる価値観を理解するダイバーシティ&インクルージョンという考え方は複雑性が増していくに連れて限界を迎えるだろう。この次に必要とされているのはダイバーシティ(多様性)を超えたユニバーサリティ(普遍性)である。このユニバーサリティに必要な要素こそ、プレゼンシングによって生み出される「つながり」だ。
『グレイテスト・ショーマン』の最大のメッセージは「プレゼンシングに繋がって生きろ!」なのだ、
自分を「場」として生かすために
いま参加しているセミナーで、有益なフィードバックを頂いた。
僕は「つながり」を源にする人であるという認知をようやく持てるようになってきた。このエッセンスを持っていることについては、色々な方から言われてきたのだが、「つながり」を源にしても、何か価値のあることや意味のあることをしていたり、できていてりしないとダメだと、結局「つながりを源にすること」を受け入れていなかった。
今回、改めて自分の源が「つながり」にあること(ニュアンス的には「ワンネス」だと思っている)を掴み、そこに立つことを選択した。そうすると、先ほどのような「何かしなければならない」ような補いの感覚は消えて、ただ「つながりの源である」ことから生きられるようになってきた。
しかし、揺らぎある日常生活を生きていると、どうしても軸がぶれることもある。自分でもその感覚はわかっていて、その度に自分を立て直そうとしてきたのだが、そのアプローチ自体が間違っていることが今回わかった。
ここで、冒頭のフィードバックの話になるのだが、その際は自分を立て直そうとするのではなく、むしろ相手につながりが生じているか、より他者にフォーカスするべしとのことだった。これは動作として他者にフォーカスすることがポイントというよりも、その動作を通じて、一度切れてしまった「つながり」がそれによって戻るので、結果その復活した「つながり」から改めて場を創り出すことができる、ということだ。
自分を立て直す方向に行くのではなく、むしろ他者にフォーカスするという考えは自分だけでは生まれることはなかったので、今回のフィードバックは大変有益だった。
また「つながり」が生じている際には、ガードするような雰囲気がなくなり、空気感が暖かくなっている感覚があるとのフィードバックも頂いた。これも自分が場となっているかを客観視する指標の1つとしたい。
とはいえ、「やること」に囚われてしまうと、いつのまにか自分にフォーカスが当たってしまい、自分と世界とが切り離されてしまうことになりやすいし、究極的にはいついかなる時も「つながり」は存在していて、自分の認知だけが「つながりが切れた」と勝手に意味づけしているだけなので「つながりが切れたと感じた際には、むしろ他者にフォーカスする」ぐらいの感覚でトライしていく。
人だけが持っている力とは?
今日は自然経営研究会に参加した。そこでネッツトヨタ南国の横田社長のお話をお伺いする機会があった。長年の経営経験から培われた印象的な言葉が数多くあったのだが、最も印象に残った「人間力」について触れてみたい。
横田社長は採用を特に大切にしていて、今でも採用に携わっているとのこと。その中で、採用基準に関するお話があった。横田社長の考える採用基準は以下の通りとのことだった。①人柄、②価値観の合致、③人間力の順番だ。
この中で僕が印象的だったのは、「人間力」の定義だ。経営者や人事担当者の間においても「人間力」が大事だという人は少なくないが、「人間力」を定義できている人はあまり多くない。
この点、横田社長は「人間力とは人間だけが持っている力」だとおっしゃっていた。これはシンプルかつ明確である。
では「人間だけが持っている力」とは何か?本来であればここから先もお伺いしたかったのだが、あいにく時間切れとなり、お話をお伺いすることはできなかった。
ここから先は自分の試論になるが「人間だけが持っている力とは何か?」について考えてみたい。僕は「自己一致する力」だという仮説を持っている。「自己一致する力」とは、内面にあることと実際の言動を一致させて表現する力を指す。
この自己一致してそこから表現する力が高ければ高いほど、自分と周囲への影響力が高まり、自然なリーダーシップの発揮につながると考えるからだ。
人は大抵、内面にあることと実際の言動にはズレがあるものだ。これは自分の心で感じていることが全て相手に伝わるとしたら?とイメージするとわかりやすい。多くの方はこの現象に恐れや不安を抱くのではないだろうか?
ズレが生じる理由は2つある。ひとつは自分の内面を深く掘り下げる習慣がないこと、もうひとつには、自己信頼の欠如によって、自分の内面を出して批判された際の恐れや不安があまりにも大きいからだ。
ひとつめについては、特に怒りや悲しみなど不快な感情であればあるほど、掘り下げをしない傾向は高まる。本来、怒りや悲しみの奥には痛みがあり、その痛みは自分が本当に大切にしている願いを教えてくれているのだが、その痛みが大きすぎるように感じて、無意識のうちに避けてしまうのだ。たいてい、忙しいなどと理由をつくっているが、本質的には痛みを扱うことが怖いのだ。そしてこの生活が続くと、今後は感情そのものを感じにくい人になってしまう。
その時、人が本来できることは、一見不快とされる感情に出会った際に、それを生み出している痛みを受容し、その奥にある願いに繋がり、その願いを基に表現することだ。
しかし、仮に願いに気づけたとしても、それが心の底から出てきたものであればあるほど、外に表現することに恐れが生じやすい。本来、その願いは自分そのものではないのだが、限りなく自分そのものであるように感じられ、自分を否定されるように信じ込みやすいからだ。
ここを乗り越えるには、自分の心からの願いを表現し、それが他者や世界に受け取られる体験を積むことが必要だ。とはいえ、いきなりハードなチャレンジをしなくてもいい。みんな日替わり定食を食べたいといっているけど、私はハンバーグランチが食べたい、とかその程度のことでいい。そして、徐々に自分の深い願いを表現することにチャレンジしていく。まずは3回チャレンジすると決めるといいかもしれない。いざ、やってみると拍子抜けするぐらいあっさり物事は動くものだ。私たちはそのぐらい、他人や世界を怖いものだと扱っている。
要旨をまとめると、不快な感情に反応的に対処するのではなく、不快な感情から願いに繋がり、その願いから純粋に表現する選択を創造的に行う力こそが「人間だけが持っている力」ではないかと僕は考える。
そして、自己一致をベースにしたマネジメントや、自己一致力を解放するための人材育成がこれからの経営には求められてくるのであろう。それこそが自然経営に繋がっていく道のひとつになるのかもしれない。
良質なイノベーションが生まれる時に起こっていること
イノベーションは今のビジネスにおいて多用されるいわゆるバズワードのひとつだ。さまざまな定義はあるが、ここでは最もシンプルな「新結合」という定義を採用したい。
世の中には良質なイノベーションとそうでないイノベーションが存在するように思う。良質なイノベーションであればあるほど、世の中を変えていくパワーを持っているが、そうでないイノベーションは一発屋的な打ち上げ花火で終わってしまう。
では、この2つの違いを創る違いは何なのだろうか?
この点についてもさまざまな見解があると思うが、そのひとつに人の内面に存在している深い意志と、それを外的世界に表現する力の「結合の質」にあると考える。
この結合の質が高ければ高いほど、世の中を根底から変えるパワフルなイノベーションとなる。一方でどちらかの要素しか満たされていなかったり、結びつきが弱かったりすると、インパクトに欠けるイノベーションとなるのではないだろうか?
イノベーションは、よく「あっと驚くようなアイディアが発想できるか?」という点に着目されやすい。しばしば引用されるスティーブ・ジョブズの例がその最たるものだろう。しかし、イノベーションのプロフェッショナルであればあるほど「イノベーションの肝はアイディア発想にある」という命題を否定する。
良質なイノベーションを起こすカギはアイディアそのものにあるのではなく、アイディアが生まれる源である「結合の質」にある。そして「結合の質」を決める要素は「どれだけクリアかつ、深く自分の内面と繋がれるか?」と、「その内面から得られたインスピレーションを歪ませることなく外界に表現できるか?」の2つだ。
世の中にあるイノベーションプログラムは、どちらかに偏っていたり、属人的な体験や経験のみに依存しデザインされていることが多い。今後求められていくイノベーションプログラムは「自己の内面をクリアに見つめ、深くに存在する純粋な願いにつながる力」と、「その願いを純粋かつ意図的に表現する力」の2つの両面にアプローチし、かつその両面を質高く結合させるプロセスが組み込まれたものとなるだろう。
「ヒト」が「人」として生きられる世界を創る
僕が抱く願いのひとつに『「ヒト」が「人」として生きられる世界を創りたい』がある。
「ヒト」は生物学的なヒトであり、何かを創り出す存在ではなく、外界からの刺激にただ反応して生きている存在を指す。
一方で、「人」は自分は何者であるかを自ら創造し、その創造した自己として生きている存在だ。
いま多くの人は「ヒト」として生きているのではないだろうか?「ヒト」が生きる上での判断軸は「快・不快」だ。なんだかんだ言って「快になるため」or「不快を避けるため」に自分の人生のすべてを費やしている。
一概に、快を求める、不快を避けることが悪い訳ではない。この生き方で手に入るのは、自分はそこそこいい暮らしをしている、マシなものになっているという効力感だ。ただし、その代償として、生きる充足感や幸福感は手に入らない。快を求め、不快を避けることは「人」として生き残りは図れても充足感を感じる活動では本来ないからだ。
人が充足感を感じるのは、創造した自己として生きている時だ。大事なのは「創造した自己」として生きることで「何をするか?」は本質的にはどうでもいい。
ではどうしたら「創造した自己」として生きられるのか?
それにはまず「反応的にヒトとして生きている自分」を認め、受け入れるところから始まる。このプロセスには痛みを伴うこともある。ただ、このプロセスを通して反応に使っていたエネルギーを創造に振り向けられるようになる。そして、エネルギーを創造に振り向けることを続けていくと、徐々に「自己が創造」されていく。こうしてだんだんと「創造した自己」として生きられるようになる、というのが現時点の仮説だ。
このブログを通じて、さまざまな面から「創造した自己」から創り出したい世界を創るためのマインドセットや、その実現に向けた自己の使い方、そして世界像そのものをクリエイトしていきたい。