日本における人と組織のシステム的変化に関する試論

f:id:dai_20:20170924175523j:plain

昨日、こちらのイベントに参加した。

hr-conference.jp

 

最近、僕は日本の人や組織(特に企業)がシステム的に変化するには何が必要なのだろう?とよく考える。これはその時その時で答えが変わったりするのだが、最近また考えが進化した感覚があり、このタイミングで言葉にしておきたい。

 

『ティール組織』の一つの価値に「既にある組織がティール組織に変わるのは極めて困難である」ことを示した点にあると思っている。本書が出るまでは、既存の企業(特に大企業)がこの手の全体性をベースにした組織に変わるのは、可能か否か?のような議論がしばしばあり、HR系の人たちは人や組織の可能性を大切にする人も多いので、「可」と見立てる傾向があった。

その点、『ティール組織』では、残酷かもしれないが、極めて困難であると言い切っている。僕もこれまでの経験から、大企業に所属する多くの人の発達段階や、人事など人と組織に関わる人たちの発達段階を鑑みるに、賛同する立場だ。

 

では、どのようなかたちで、日本の人と組織が変化していくのだろうか?以下は僕が考えるシナリオだ。

まず始めに、全体性や発達段階を成熟させていく活動にある意味、企業業績の向上活動以上に価値を置く経営者の出現が起点だと考える。そして、その次に、その経営者と共に働く経営陣の発達、続いてマネジャー、メンバーの発達を通じて、組織全体の発達段階が成熟し、最終的に全体性を志向する会社に変化していく。

さらに、その様子が周囲に波及することで、周辺にいる経営者が気づき始めて、全体性への旅をスタートさせる。この流れが加速すると、既存の企業で働いている若い人が、全体性を志向する企業に転職するようになる。ここで初めて大企業は優秀な人が次々に辞めていくことに危機感を募らせ、制度変更などに遅ればせながら着手するようになり、全体性を徐々に帯びていくようになる。そうすると、今度はその制度に対応するために大企業で働いている人も発達段階の成熟が求められる、そんなシナリオだ。

こうやって改めて思考を巡らせていくと、大企業が「ティール化」するのは経営者がコミットしないとやはりかなり難しそうだ。せいぜい「グリーン」止まりのような気がする。(それだけでもだいぶマシだが)今の社会における集合意識は「グリーン」までは顕在的にも潜在的にも求めている感覚はあるが、「ティール」は潜在的にOKでも、顕在的に色々な不安が立ち上がるのではないか。この不安を乗り越えるリーダーだけが「グリーン」と「ティール」の間にある壁を乗り越えていくのだろう。

 

以上を踏まえると、日本における人と組織がシステム的に変化していくためには、成人発達や全体性を志向する経営者を、質と量の観点でどれだけ支援できるか?に懸かっているのでは?というのが現時点の最新仮説だ。

 

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

 

 

なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか――すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」をつくる

なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか――すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」をつくる

 

 

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する

 

 

学習する組織――システム思考で未来を創造する

学習する組織――システム思考で未来を創造する

 

 

「事業の目的とは顧客の創造である」の真意とは?

f:id:dai_20:20180514232700j:plain

先週末、ネクスト・ソサエティ・フォーラム2018というイベントに参加してきた。主にドラッカーに関連する講演や発表で構成されており、期待以上のクオリティだった。

 

いろんな学びがあったのだが、その中でも印象に残ったものとして「顧客の創造」がある。これはドラッカーの言葉の中でも有名なものの一つだ。しかし、その真意を掴めてはおらず、まあ当たり前だよなぐらいにしか捉えられていなかった。

 

このフレーズ、日本語のみで理解をするのはかなり難しいのではないだろうか?原文では「create a customer」というらしい。

ポイントは2つある。ひとつは「create」。これは文字通り「つくる」ということだ。つまり「0→1」であり、これまで顧客でなかった人が顧客になることを指す。常に新規顧客を創造し続けよ、ということだ。そのためには新しい価値を創造し続けることが前提となる。だからドラッカーは企業の機能は「マーケティング」と「イノベーション」だけだと言い切っているのである。

そして2つ目は「a」だ。あくまで一人にフォーカスせよと言っている。つい、私たちは顧客を群で捉えてしまう。しかしそれでは、顧客一人ひとりにフォーカスすることは困難になってしまう。あくまで起点は1人であり、その人に価値を創造することで顧客としていく、この活動の積み重ねが事業なのだ。

 

ドラッカーの言葉は平易であるが深い意味があり、単語一つひとつにも意味が込められている。明日以降も引き続きフォーラムからの学びを記していきたい。

 

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

 

 

人生の変容を促す目標をつくる時に大切なことは?

f:id:dai_20:20141220144044j:plain

今日、『本当の自分を生きる』という本を読んでいた。いくつも印象的な部分はあったのだが、特に響いた「問いを立てる」について書いてみたい。

 

本当の自分を生きる: 人生の新しい可能性をひらく8つのキーメッセージ

本当の自分を生きる: 人生の新しい可能性をひらく8つのキーメッセージ

 

 

僕が最近考えていたことに、「人生の変容を促す目標をつくるには?」というものがあった。

目標を立てる際の原則として、「想像を超えた目標を作れ」というものがある。平成進化論の鮒谷さんは「荒唐無稽な目標」、コーチングの大家ルー・タイスは「ゴールは現状の外」と、同じメッセージを違う表現を用いて伝えている。

ただ、言うのは簡単だが、実行するとなるとなかなか難しい。当たり前だが、今の自分の頭で考えられる目標は、当然今の自分の思考の影響を受ける。つまり、箱の外に出る手段を箱の中にいながらにして考えろ、と言われているようなもので、構造的に無理があるからだ。

だから、本来は顕在意識を吹っ飛ばして、潜在意識に潜れるようなワークや環境下に置いて目標をつくることが必要だ。

しかし、このような環境を常に持てるかというと、それもまた難しいのではないかと思う。目標をつくる度に研修やワークショップに参加する訳にもいかないからだ。

 

そこで、日常生活を送りながらも「現状の外に出た目標をつくる方法」を考えていたのだが、そのヒントが冒頭の「問いを立てる」にあるのではないか?と思っている。

『本当の自分を生きる』の中にこんな一節がある。

 

問いを求めなさい。そして、問いを生きなさい。問いを生きていれば、やがて自分がその答えを生きていることに気がつくでしょう

 

この「やがて自分がその答えを生きている」という状態こそが、まさに「現状の外」に出ている時だ。

榎本さんも逆説的な表現で同じようなことを言っている。

 

問いを持たなくなるということは、自分が慣れ親しんだ快適な領域の中に留まるということであり、未知の領域に足を踏み出さなくなるということを意味します

 

では、どうしたら問いが立てられるようになるのか?引き続き榎本さんの言葉を引用する。

 

「自分は今、どんな問いを立てているか?」

「どんな問いを立てれば自分が力づけられるだろうか?」

 

これらを自分に問い続けることで「問いを生きること」へと自分をいざなってくれる。

参考までに、いま僕が持っている問いは「源に繋がった社会はいかにして可能か?」だ。

さらに、問いとともにいることで、問いは進化していく。

そして、問いの進化こそが人生の変容を促す。

自分の仕事を創る(創職)ためのステップとは?

f:id:dai_20:20120802181534j:plain

昨日に引き続き、先日参加した場での気づきを書いてみる。今回は「自分の仕事を創る」(創職)のためのステップについて。

 

「自分の仕事を創る」(創職)とは、仕事に自分を合わせるのではなく、自分に仕事を合わせる姿勢のことを指す。もう少し具体的には、①自分にあった仕事を創り出す、②いまある仕事を自分なりにとらえ直してみる、の2つがある。

 

これまでは、自分の内なる声に気づき、そこから行動してみることが創職へのステップだと考えていたが、それだけでは要素が不足しているのでは?と考えるようになった。

 

それは「内なる声を出している自分の起点」だ。

どれだけ自分の声を聞いていたとしても、その声を出している源である自分の起点が恐れや不安に支配されていたら、それは創り出しているのではなく、生き残りをかけた適応行動だ。適応反応から創職をしても「本当にお金が稼げるか不安」「誰にも必要とされなかったらどうしよう」など、不快な感情が押し寄せ、それに対処することに手一杯になってしまう。

しかし、自分の願いや使命に繋がったところからの創職は「たとえ当初は儲からなくとも、儲かるまでやる」「必要とされなくともやる」というようなマインドセットになる。

もちろん最初はそんなクリエイティビティに溢れたマインドセットからスタートしても、現実を扱って行くうちに適応的なマインドセットになってしまうこともある。その時は改めて、本当に望む起点に繋がることを選択し直す、ただそれをこまめにやっていくだけだ。「何をやったか?ではなく、どこからやったか?」「選択と行動は起点に一貫しているか?」これだけが創職とそこから起きる現実の質を決める。

 

だから創職活動は一度やったら終わりではない。繋がりが途切れるたびに、自分が成長・変容するたびに行うものなのだ。

外なる場に起こっていることは自分の内なる場にも起こっている

f:id:dai_20:20161231092819j:plain

ここ3日間は、とある場に参加していた。そこでの気づきがいくつかあり、数日に分けて投稿していきたい。

 

1つ目はタイトルとして書いた「外の場と自分の関係性」だ。この点については、まだ仮説段階であり、もう少し検証が必要であると考えているが、いったん形にすることで検証をやりやすくする意図で書いておきたい。

 

具体的なエピソードを書いた方がわかりやすいだろう。

その場では、ある活動を前に進めるために、集ったメンバーが何ができるか?というテーマで話し合っていたが、僕はその場が何か「フリ」のようなもので満ちていると感じていた。メンバーは耳あたりの良いことを言うのだが、どこか他人事であり、自分ごととして発言していない気がした。さらに、少し場が停滞すると「自分が必ずしもやるという訳ではないから」などとさらにハードルを下げる発言がファシリテーターから出るなど、場のインテグリティがますます低下していくように感じていた。

普段であれば、僕は「なんとなくフリが蔓延している気がする」と発言し、場やその場にいる人に是正を促すようなフィードバックを掛けるのだが、その時はふと思い立って、逆に「フリが自分の中にも起こっているとしたらどうだろう?」と自分に問いかけてみた。

すると「確かに自分もフリをしている。外にフリが蔓延していると感じていることを声にするでもなく、この場をやり過ごそうとしている」という心の声が聞こえてきた。

そこで初めて、自分もフリをしていたことに気がついた。

 

そして、それを受け入れると、場のフリはあまり気にならなくなり、議論も前進するようになった。

その様子を見ながら、外なる場と内なる場の関係性について、感覚を掴んだように感じた。今までも「ワークショップに申し込みがありません。それは自分が引き起こしたものとして見なさい」などとやり取りをする場面を経験したことがあった。ただ個人的にはこのトーンでのやり取りはどこか強制力を感じさせ、あまり好きなやり取りではない。

今回は上記とは少し異なり、結果と自分の内面を直結させるというよりも、話し合いのトーンと同じ要素が自分にもあるか?と問う、一段深いところと繋がっているという感覚であった。

 

もう少し言語化してみると、

  1. 場の現象を観察する(事実。今回で言えば発言内容)
  2. その現象が起こっている場にあるトーンを把握する(今回で言えば「フリ」)
  3. その「場にあるトーン」と同じものが自分の内面にも今起こっていないか?を問う
  4. 自分にも同じ要素があると気がついた場合は、そうなってしまっている自分を認め、受け入れる(自分を必要以上に責める必要はない)
  5. 外なる場で感じたトーンが、いまこの瞬間に自分の内なる場でも起こっていることを自己開示する(合っている間違っている、良い悪いという判断を脇に置いて話すことが大切)
  6. 真実に呼応して場が転換する

 

こんなプロセスではないだろうか?先ほどのワークショップの事例で言えば、直接的に申し込みゼロという現象を自分が創ったというよりも、自分の内面で起こっていたことが、場に影響し、その場では望む現実が創られなかった、というやや複雑な径路である、というようなイメージである。

これも個人的な感覚なのだが、望む現実は「クリアかつインテグリティのある自分を器とし、そこからただ湧き上がる真実を何も足さず、何も引かずに場に出す」ことで場に起こっているのではないだろうか?

これからも、外の世界での出来事をリソースに、自分の内面と望む現実の創られようをしばらく観察と検証を続けていきたい。

パフォーマンスの全体システム「エッセンスを源とした起点の選択→湧き上がる行動→自然体の自分から持たされる成果」

f:id:dai_20:20130925181213j:plain

今回は、まさに今日参加してきたセミナーでの気づきを簡単に記してみる。

 

人は成果が挙がった理由を、適切な行動をとったからと考えがちだ。しかし、実際には行動だけが成果を決めている訳ではない。

行動の奥には起点がある。その起点が行動を生むのだ。ふだん人はあまり起点に意識が向かわない。そうすると起点が行動を創り出しているような認識は持ちにくくなるが、実際には起点を選択することで自然と湧き上がった行動が成果を創っている。

 

ポイントは「起点の選択」と「自然と湧き上がった行動」だ。人は起点を意識的、無意識的にせよ必ず選択している。

そして起点に繋がりきると、何をするべきが「自然と湧き上がる」。

逆に、どんな行動が妥当か、適切か、などと頭で行動について考えているうちは「自然と湧き上がってこない」。また、何かしらの効力感がある場合も、湧き上がりとは異なる源からの行動であると考えている。この区別が微妙かつ曖昧なところだが、結果を大きく分けるカギとなる部分になる。

 

行動が「自然と湧き上がって」いないうちは、100%の明確さを持って起点を選択していないのだ。多くの場合「痛すぎで起点を選択したくない」、「100%の明確さを持っていない不安感」、「選択のクオリティが低い」あたりに盲点がある。

人材開発・組織開発におけるステップゼロとは?

f:id:dai_20:20180426234915j:plain

今日はとあるリーダーシッププログラムの体験会にサポーターとして参加した。やはり自分が満たされる感覚があり、また、サポートさせてもらった参加者の方も短時間にも関わらず大きく変化されており、この領域のインパクトを改めて強く感じた。

 

そして、参加する中で感じたことがひとつある。それは「自分の認知システム」を自覚し、反応的になっている認知システムがあれば、それを自分でマネジメントできるようになることが人材開発・組織開発を行う上での0歩目、いわば「ステップゼロ」ではないかということだ。

 

「ステップゼロ」とは経営コンサルティング会社フィールドマネジメント代表の並木さんが掲げるコンセプトだ。通常コンサルティングは、自身や社内で解決できない時に用いられる手段だが、これはステップ1やステップ2になる。一方で、ステップゼロは悩み事のあるなし関係なく常に共にいて、必要に応じて関わりを持っていく、そんなコンサルタントのあり方であると認識している。

 

そしてそのコンセプトを借り「人材開発・組織開発においてのステップゼロとは何か?」という問いを掲げた時、冒頭に挙げた「認知」を扱うことではないかと考えに至った。

 

「人が育っていない、組織が良くない」という現象は、根っこを辿っていくとその会社にいる人が持つ認知システムが生み出している可能性が高いためだ。

今のパラダイムコンサルティングだと、人事制度を変えましょう、研修をやりましょう、エグゼクティブコーチングを行いましょうなど、ステップ1やステップ2から入ることが多い。しかし、どれだけ素晴らしい人事制度や研修を採用しても、根っこの認知システムが変わっていないと、結局その認知システムに引き戻されてしまう。

だからこそ、「ステップゼロである認知システム」を扱うことが必要なのではないかと考えている。

この領域は従来のパラダイムではごく一部のエグゼクティブコーチングぐらいでしか扱われていなかったと思うが、これからは働く一人ひとりが学び、実践していくテーマだと考えている。

 

僕自身も、そんな世界観を当たり前とする役割を担う1人でありたい。