外なる場に起こっていることは自分の内なる場にも起こっている

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ここ3日間は、とある場に参加していた。そこでの気づきがいくつかあり、数日に分けて投稿していきたい。

 

1つ目はタイトルとして書いた「外の場と自分の関係性」だ。この点については、まだ仮説段階であり、もう少し検証が必要であると考えているが、いったん形にすることで検証をやりやすくする意図で書いておきたい。

 

具体的なエピソードを書いた方がわかりやすいだろう。

その場では、ある活動を前に進めるために、集ったメンバーが何ができるか?というテーマで話し合っていたが、僕はその場が何か「フリ」のようなもので満ちていると感じていた。メンバーは耳あたりの良いことを言うのだが、どこか他人事であり、自分ごととして発言していない気がした。さらに、少し場が停滞すると「自分が必ずしもやるという訳ではないから」などとさらにハードルを下げる発言がファシリテーターから出るなど、場のインテグリティがますます低下していくように感じていた。

普段であれば、僕は「なんとなくフリが蔓延している気がする」と発言し、場やその場にいる人に是正を促すようなフィードバックを掛けるのだが、その時はふと思い立って、逆に「フリが自分の中にも起こっているとしたらどうだろう?」と自分に問いかけてみた。

すると「確かに自分もフリをしている。外にフリが蔓延していると感じていることを声にするでもなく、この場をやり過ごそうとしている」という心の声が聞こえてきた。

そこで初めて、自分もフリをしていたことに気がついた。

 

そして、それを受け入れると、場のフリはあまり気にならなくなり、議論も前進するようになった。

その様子を見ながら、外なる場と内なる場の関係性について、感覚を掴んだように感じた。今までも「ワークショップに申し込みがありません。それは自分が引き起こしたものとして見なさい」などとやり取りをする場面を経験したことがあった。ただ個人的にはこのトーンでのやり取りはどこか強制力を感じさせ、あまり好きなやり取りではない。

今回は上記とは少し異なり、結果と自分の内面を直結させるというよりも、話し合いのトーンと同じ要素が自分にもあるか?と問う、一段深いところと繋がっているという感覚であった。

 

もう少し言語化してみると、

  1. 場の現象を観察する(事実。今回で言えば発言内容)
  2. その現象が起こっている場にあるトーンを把握する(今回で言えば「フリ」)
  3. その「場にあるトーン」と同じものが自分の内面にも今起こっていないか?を問う
  4. 自分にも同じ要素があると気がついた場合は、そうなってしまっている自分を認め、受け入れる(自分を必要以上に責める必要はない)
  5. 外なる場で感じたトーンが、いまこの瞬間に自分の内なる場でも起こっていることを自己開示する(合っている間違っている、良い悪いという判断を脇に置いて話すことが大切)
  6. 真実に呼応して場が転換する

 

こんなプロセスではないだろうか?先ほどのワークショップの事例で言えば、直接的に申し込みゼロという現象を自分が創ったというよりも、自分の内面で起こっていたことが、場に影響し、その場では望む現実が創られなかった、というやや複雑な径路である、というようなイメージである。

これも個人的な感覚なのだが、望む現実は「クリアかつインテグリティのある自分を器とし、そこからただ湧き上がる真実を何も足さず、何も引かずに場に出す」ことで場に起こっているのではないだろうか?

これからも、外の世界での出来事をリソースに、自分の内面と望む現実の創られようをしばらく観察と検証を続けていきたい。